管理職も経験した介護福祉士としての仕事への想い/ASD・LD/みゆさん

みゆさん

診断名 ASD ・LD
職業  介護職(介護福祉士)

「介護しかできない」ではなく、「今の自分にできること」

「また介護か、やっていけるかな」

そう思いながらも、みゆさんは再び介護の現場へ戻ることを決めた。

43歳。3人の男の子を育てる母親であり、介護福祉士として十数年のキャリアを持つ。デイサービスの管理者やサービス提供責任者など、現場だけでなくマネジメントの立場も経験してきた。

しかし、その道のりは一直線ではなかった。学業でのつまずき、家族の介護、子育てと仕事の両立、離婚、退職、そして再就職活動。何度も進路変更を迫られながら、そのたびに目の前の状況と向き合ってきた。

発達特性としてはアスペルガー傾向とLD(学習障害)の診断を受けている。特に数字が苦手で、子どもの頃から算数には強い苦手意識があったという。

「1+1は大丈夫なんですけど、数字が複雑になってくるとダメなんです。時計の逆算とかも覚えられない。学校の成績も極端でした」

一方で、立方体を別の角度から見たときに何面見えるか、といった図形問題は得意だった。数字は苦手でも、空間認識には強さがあった。

だが学生時代、その苦手さは周囲からなかなか理解されなかった。

「親からはずっと『やればできるのに』って言われてました」

その言葉を聞き続けながら高校へ進学することになる。

数学の単位が足りず、「3.5年生」になった高校時代

みゆさんは自分のことを「3.5年生だった」と表現する。

高校3年生のときに体調を崩し、入院を繰り返した。中間テストも期末テストも病院のベッドの上だった。

結果として単位が不足した。

しかも足りなかったのは、よりによって数学だけだった。

学校から提示された選択肢は三つ。留年するか、中退するか、単位制高校へ転校して不足分だけ取得するか。

みゆさんは最後の選択肢を選んだ。

「3年間通わせてもらったのに、ここで辞めるのはもったいないと思ったんです」

自ら奨学金を借り、親戚に保証人を頼み、単位制高校へ転校。必要だった7単位だけを取得し、半年後の9月に卒業した。

当時、看護師になりたいという夢があった。しかし家庭の経済事情もあり、中学生の頃には「看護学校は諦めてほしい」と言われていた。さらに理数系科目への苦手意識もあった。

それでも、人の役に立つ仕事をしたいという思いは消えなかった。

卒業後、求人チラシを見ながら仕事を探していたとき、「無資格OK、会社負担で資格取得可」という介護施設の募集が目に入った。

「これや、と思いました」

18歳。介護の世界への最初の一歩だった。

人が多すぎて、誰が職員かわからなかった

最初に入職したのは介護老人保健施設だった。

医師が常駐し、看護師もいる大規模施設。職員数も多かった。

みゆさんにとって最初の壁は、介護技術ではなく「人」だった。

「スタッフの顔と名前が一致しないんです」

さらに当時はヘルパー資格ブームで、毎週のように研修生が施設へやって来る。学生だけでなく社会人も多く、見た目だけでは区別がつかない。

「その人が職員なのか、研修生なのかもわからないんですよ」

私服で歩いている人を見ると、「家族さんかな」「職員かな」「研修生かな」と頭の中が混乱する。

空気を読んで判断することも苦手だった。

「とにかく人が多すぎて、わけが分からなかったです」

それでも5年近く働き続けた。

利用者の入浴介助や排泄介助、リハビリ補助、レクリエーション、食事介助。介護職としての基礎をこの時期に身につけた。

しかし、人の顔を覚える苦手さは最後まで消えなかったという。

「辞めていく人も多かったので、結局ずっと覚えられないままでした」

退職届をドアの隙間に差し込んで逃げた日

退職のきっかけは母親の体調悪化だった。

心臓を患った母親の通院や家事を担う必要が出てきた。

夜勤や早出を続けるのは難しい。

退職を申し出たが、人手不足を理由に話が進まない。

パート勤務への変更も相談した。しかし話は何度も先送りになった。

「ごまかされて、ごまかされて、ずっと流されていたんです」

そしてある日、みゆさんは行動に出た。

誰にも会わない時間帯を見計らって施設へ向かう。

地下の洗濯場へ制服を返却し、抜き足差し足で施設長室へ。

退職届と健康保険証をドアの隙間へ差し込むと、そのまま立ち去った。

「忍者みたいに行って、シャッと入れて、うわーって帰りました」

飛ぶという選択肢は考えなかった。

育ててもらった恩があったからだ。

そのあたりに、みゆさんらしい真面目さが見える。

工場勤務のはずが、なぜか総務部へ

介護を離れた後、次に選んだのは派遣会社経由の工場勤務だった。

夜勤のない仕事がしたかった。

ところが、入社オリエンテーションで思わぬ声を掛けられる。

「なんであなたみたいな若い子がここに来てるの?」

担当者からそう聞かれた。

見回してみると周囲は年上ばかり。

事情を話すと、「事務職に興味ない?」と誘われた。

パソコン経験も電話対応経験もなかった。

それでも「大丈夫」と背中を押され、気付けば総務部勤務になっていた。

タイムカードの集計、電話の取り次ぎ、制服管理。

介護とはまったく違う仕事だった。

だが少人数の職場は居心地が良かった。

「人が少ないので顔が覚えやすかったんです」

介護施設のような複雑な人間関係もない。

最低限のコミュニケーションで仕事が回る環境は、みゆさんに合っていた。

その後、結婚。

長男が生まれ、さらに妊娠・出産が続き、3人の子どもの母になった。

「こんなに落ちるのか」と思った再就職活動

三男を保育園に預け、再び働こうと思ったとき、みゆさんは介護以外の仕事を探した。

しかし現実は厳しかった。

子どもはまだ0歳。

飲食店も事務職も不採用が続く。

「こんなに落ちるかっていうぐらい落ちました」

トイザらスの面接も落ちた。

企業側の事情も理解できる。小さな子どもがいれば急な休みは避けられない。

結果として採用されたのは、やはり介護だった。

派遣として施設に入ると、今度はすぐに採用が決まった。

「介護だと一発で受かるんですよね」

ただ、現場復帰は楽ではなかった。

授乳しながらの勤務。

帰宅すると寝ながら授乳し、また起きて家事をする。

「ゾンビみたいでした」

それでも働き続けた。

「あなたはお姉ちゃんなんだから」「しっかりしているから」

そう言われて育ったことを、本人は少し笑いながら「呪いみたいなものかもしれない」と振り返る。

管理職を引き受けた理由

その後、みゆさんはデイサービス管理者やサービス提供責任者などの役職を任されるようになる。

管理職になりたい人が少ない介護業界で、なぜ引き受けたのか。

理由は意外だった。

「働くお母さんたちの力が活かされてないと思ったんです」

介護現場には子育て中の女性が多い。

利用者の世話もできる。気配りもできる。責任感もある。

それなのに子どもがいることがハンデとして扱われ、管理職にはなかなか上がれない。

一方で、現場を知らない人が上に立っていることへの違和感もあった。

「私でも頑張ったらこうなれるかも、って思ってもらえたらいいなと思ったんです」

部下に対しては、その人の良いところを探し、役割を任せることを心掛けてきた。

実際に「最初に介護を教わったのがみゆさんで良かった」と言われた経験もある。

それは彼女にとって、ひとつの誇りになっている。

離婚と退職、そして再び介護へ

昨年、離婚を経験した。

さらに仕事でも転機が訪れる。

子どもの体調不良による欠勤や上司との関係悪化が重なり、退職することになった。

辞めるつもりはなかった。

むしろこの業界でやっていこうと覚悟していた。

だからこそ途方に暮れた。

介護以外の仕事も探した。

正社員も派遣もアルバイトも応募した。

しかし結果は不採用の連続だった。

自信を失いそうになる中、介護職に応募すると再びすぐ採用された。

介護福祉士資格と長年の経験が評価されたのだろう。

「介護は、したいことだった。でも今は、できることなんだと思いました」

そう言って、みゆさんは再び介護の現場へ戻る。

現在は新しい職場への入職が決まり、子どもたちとの時間と自分の体調を大切にしながら働いていくつもりだという。

「子どもの進学もありますし、先は長いので。短期的なことだけじゃなくて、中長期的なバランスを考えながらやっていこうと思っています」

十数年にわたり介護の現場を離れたり戻ったりしながら歩んできたみゆさんにとって、介護は特別な使命というより、自分の人生とともにあり続けた仕事なのかもしれない。

新しい職場での仕事は、これから始まる。

YouTubeチャンネル「発達障害の仕事インタビューch」はこちら